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コラム

和倉温泉と金沢の思い出から
下田 正敏
Masatoshi SHIMODA
本誌編集委員 / 元・日野自動車(株)
JSAE ER Editorial Committee / former Hino Motors, Ltd. Technical Research Center

 今年の2月末に、能登の和倉温泉と金沢に出かけた。この場所は約15年前に、昨年亡くなった母親と家族と行ったことがあり、母親が大変喜んでくれたことを思い出したからである。その時は、和倉温泉に宿泊する日に、米国環境保護庁(EPA)運輸大気質局の局長のマーゴ・オーゲ氏(ギリシャ出身の女性)が当時としては最も厳しい大型商業車排出ガス規制(米国2010年規制)の日本における研究状況調査のために、トヨタと日野に来ることになり、その対応で私は和倉温泉には行けず、翌日金沢に直行して家族に合流した。

 マーゴ・オーゲ氏がわざわざ訪日し調査した理由は、米国2010年規制にNOx吸蔵還元触媒が使うことができるか、若しくは尿素水を用いたSCR触媒を使うかの方針の見極めに重点が置かれていた。
 過去のガソリンエンジンの排出ガス低減技術において、三元触媒システムには劣化防止のため無鉛ガソリンの使用が前提とされていた。しかし無鉛ガソリンだけでなく、従来の有鉛ガソリンが市場に流通していため、コストが低い有鉛ガソリンを消費者が使ったことで、三元触媒システムの劣化が大問題になり、EPAの失政と評価された過去がある。SCR触媒はNOxの還元剤として尿素水を用いるため、燃料としての軽油に加えて尿素水のコスト負担が追加で生じる。これを嫌う運転者、消費者は、尿素水の補給をしない可能性があり、ガソリンエンジンの無鉛化の時と同じことが起こるかもしれない。これがEPAの最大の懸念点であった。NOx吸蔵還元触媒システムは燃料である同じ軽油を還元剤として活用するため、こういう問題は起きないことから、EPAは、この時点ではNOx吸蔵還元触媒を推奨していた。

 米国の大型商業車用の2010年規制は、NOxに対しても、PMに対しても、高圧噴射、EGRなどを用いるシリンダ内の燃焼改善では達成可能な領域を超えており、次のような後処理技術、すなわち

  • NOxに対してはNOx触媒(尿素水を還元剤に用いるSCR触媒、NOx吸蔵還元触媒、軽油を還元剤に用いるHC還元触媒 等)の後処理システム
  • PMに対しては DPF 後処理システム

を両方用いる必要があり、これは世界で初めての試みであった。これらの大型車両単体の技術的な困難さとともに、周囲のインフラ整備をはじめとする次のような政治的課題を抱えていた。

  1. 尿素水を用いたSCRシステムを用いた場合、その供給システムをどうするか? その供給システムが自動車業界全体で意見がまとまるか?
  2. 米国EPAは、尿素水を補給しないでドライバーが走行する場合が想定されるので、尿素水を用いたSCRは好ましくなく、軽油が燃料だけでなく還元剤にも利用できる、NOx吸蔵還元触媒が好ましいとの見解を表明していた。それに対して、どのような論理でEPAを説得していくか?
    尿素水を用いたSCRを選択した場合、尿素水がない場合の走行に、どのようなペナルティが妥当か?それによりEPAの見解であるNOx吸蔵還元触媒の優位性を覆せるか?
  3. NOx吸蔵還元触媒を研究開発したトヨタは、この触媒システムをディーゼルエンジンのNOx対策のデファクトスタンダードにしようとする考えを持っていた。そのため、いろいろな方面から日野に対しての働きかけがあった。
 

 いずれも周囲における重大な政治的課題であり、できるだけ早く解決の方向性を明らかにして、技術的な問題点とは切り離すことで、技術的判断の独立性を確保したかった。

 政治的課題の1については
 EMA (Engine Manufacturers Association,米国のエンジン製造業の協会、日本の自工会に相当)のなかで中心となる数社のEMAの委員を個人的に訪問して意見交換をした。よく会っている各社の研究のトップを訪問する手もあったが、その場合はトップ個人の先鋭な意見が出やすい。EMAの各社委員は、比較的冷静な意見を持っており、落としどころを心得ているように感じられ、業界全体の意見は、尿素水のSCRシステムの選択と、その共通の尿素水の供給インフラ整備に落ち着くであろうと推測した。

 政治的課題の2については
 EPA の懸念はもっともであり、ドライバーの生命の安全の面からエンジンを強制的に止めることはできないが、車両速度の制限、走行距離の制限等をかけることは可能である。この議論をEMAの内部で発展させ、EPAの納得を得るべく働きかけた。

 政治的課題の3については
 NOx吸蔵還元触媒を研究開発したトヨタの研究チームと、日野の研究所の触媒チームが合意して触媒耐久試験(模擬ガスによる、実寸触媒の耐久)を、2社の間で公開して実施した。だめである証明をするのではなく、どうしたら耐久性を確保できるかの観点で、アイデアを出し合って耐久試験を進めたが、Heavy Dutyの走行距離に対応する耐久性の確保までは、現状の軽油中のサルファーレベルでは手が届かないことを認識し、米国2010年規制への本システムの適応を見送った。

 このように、政治的問題点の解決の方向性を見出すことにより、技術研究所の技術的判断の独立性を確保して、技術的問題点の解決に集中し、以下の様な米国2010年規制対応エンジンのコンセプトをまとめることができた。

  • 高圧噴射、EGR,過給の制御を中心としたシリンダ内の燃焼改善
  • 尿素水を用いたSCRシステムによるNOx後処理
  • 昇温装置を含むDPFシステムによるPM後処理

これらは、いずれもご協力いただい部品サプライヤの方々のご努力と、EMA,EPAの関係者との有益な議論の賜物であり感謝申し上げる。しかし周囲における政治的課題の解決の方向性、もしくは技術的課題の判断を間違えた場合には、組織は道連れにできないので、辞表を机の中にいれておいた事を記憶している。

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