TOP > バックナンバー > Vol.16 No.1 > 第2章 創業と開拓の時代(1946-1970年前後)
本稿は、「みんなを喜ばせたい」「技術力で世界に挑戦する」という情熱を原動力とした本田技研工業の創業期(1946~1970年頃)における主要な技術開発と社会的挑戦を、代表的な展示品を通じて紹介する。浜松の小規模町工場から始まった自転車用補助エンジンの開発、汎用事業の開始、マン島TTレースへの挑戦、スーパーカブの発売、そしてF1初参戦に至るまでの軌跡を、技術的観点と社会的意義の両面から紹介する。
戦後、妻が自転車で苦労して遠くまで買い出しに出かける姿を見ていた本田宗一郎氏は、「人を喜ばせたい」という想いから、旧陸軍の無線機用エンジンを自転車用補助エンジンに転用することを思いつく(図1)。この発想は、生活者の切実なニーズに応えるものであり、発売直後から高い評価を受け、在庫が即座に払底したため、ホンダ初のオリジナルエンジン開発が急務となった。前のエンジンと同様な仕様で設計するような無難な方法に満足しない本田氏は、燃費および比出力の向上を目指し、1974年7月新エンジンの試作に取りかかった。部品点数が少なく安価な2ストロークサイクルを選択し、掃気効率を高め吸気の吹き抜けを防ぐための独創的なアイデアを採用して、ホンダ第1号試作エンジン(図2)が開発された。そのアイデアとは、段付きピストンによる中央部からのユニフロー掃気方式で、ピストン頭部の「エントツ」と呼ばれたパイプ状部品の側面に掃気ポートを設けるというものであった。さらにその後、新たに設計・開発されたホンダ初の製品化オリジナルエンジンが、A型エンジン(図3)である。このA型エンジンから、エンジン名称にアルファベット順の命名規則が導入された。A型エンジンは1947年11月に完成し、2ストロークサイクル方式を採用、給気効率向上のためにロータリーディスクバルブを装備していた。このエンジンは1951年まで生産が続けられ、後述の第6章「想い出の展示品との出会い【回顧録】」で紹介するF型(愛称:カブ号)が、1952年から全国の自転車店を中心に販売された。
カブ号F型の生産終了後、自転車用補助エンジンの時代も終わりが見え始めていた。藤澤氏(当時専務)は次なるヒット商品をつくり、国内外で販売する構想を練っていた。大衆の足となる二輪車の全く新しいモデル(人々が本当にほしいもの)開発に着手した。コンセプトは「そば屋さんの出前持ちが片手で運転できるバイク」であり「スカートをはいたお客様にも乗ってもらえる二輪車」である。本田氏は、誰もが容易に乗ることができ、かつ経済的な移動手段を実現するため、跨ぎやすく快適な構造およびデザインの検討を重ねた。燃料タンクをシート下に配置した低重心のバックボーンフレームを採用し、さらに環境負荷にも配慮した結果、高出力かつ省燃費、排出ガスの清浄性にも優れる4ストロークOHVエンジンを、当時は量産化が困難とされていた50ccにて量産化し、水平近くまで前傾させて搭載した。また、クラッチ操作を不要とする3速自動遠心クラッチを導入することで、操作性の向上を図った。加えて、足元の汚れを防ぐ樹脂製レッグシールドや、オイルの飛散を抑制するチェーンケースを装備。さらに、悪路走行時にも高い安定性と快適な乗り心地を確保するため、17インチ大径タイヤを採用した。こうした革新的な設計思想と技術の結集により、生活のためのバイクとして高い完成度で、それまでにない新しい価値を持つ乗りものとしてスーパーカブC100が誕生した。今なお一貫したデザインコンセプトを守り続け、世界中で愛されている。
Movie.1 スーパーカブC100
(動画提供:本田技研工業)
1963年8月、ホンダは軽トラックT360を、続く10月には小型スポーツカーSPORTS500をS500として市場に投入した。これらの新型車の開発と発売は、1962年当時の国内で構想を進められていた、新規自動車メーカーの参入を制限する“特定産業振興法案”への対抗策としての側面も持っていた。本田氏は、「自由競争こそ産業を育てるんだ」との信念のもと、T360を軽自動車、S500を小型車として位置付け、参入実績を積み上げる戦略を立てたのである。もしこの時点でホンダが四輪事業への進出を諦めていたら、現在のホンダ四輪事業への発展はなかったかもしれない。S500は、海外市場も視野に入れ、軽自動車SPORTS360から小型自動車へ転換を図ったモデルである。当時の日本市場ではスポーツカーの需要は限定的であったため、世界に通用する四輪車をつくろうと、本田氏は当初から世界市場を見据えていた。その後、S500はS600、S800へと進化し、ホンダの四輪車は世界へと羽ばたくこととなった。また、T360は軽トラックでありながら、初のDOHCエンジンと4連キャブレータを搭載し、最高出力30PS/8500rpmという高性能を実現。その卓越した性能から「スポーツトラック」とも称された。
Movie.2 S500
(動画提供:本田技研工業)
Movie.3 T360
(動画提供:本田技研工業)
四輪車市場への参入を果たしたばかりのホンダは、四輪車メーカーとしては最後発でありながら、世界最高峰の自動車レースであるF1への挑戦を宣言した。その宣言からわずか7カ月後の1964年8月、F1世界選手権第6戦ドイツGPに参戦。エンジン(RA271E:60度V型12気筒横置き1495cc、最高出力220PS以上)から車体まで、すべて自社開発によるF1マシンRA271でデビューを飾ったが、初年度は3戦中2度のリタイアという厳しい結果となった。だが、ホンダはマシンの軽量化、エンジンの冷却性の向上、重心の低下など、数々の技術的課題を一つ一つ粘り強く克服。翌年1965年には、RA272で出力を約10PS向上させ、最終戦メキシコGPにて初優勝(図6 ゼッケン11)を成し遂げている。初優勝の報を受けて、本田氏は記者会見で次のように語っている。「我々は、“自動車をやる以上、一番困難な道を歩く”ということをモットーにやってきた。勝っても負けてもその原因を追求し、品質を高めて、より安全なクルマをユーザーに提供する義務がある。勝っておごることなく、勝った原因を追究して、その技術を新車にもどしどし入れていきたい」
Movie.4 RA272
(動画提供:本田技研工業)
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